歴史裏話 義に生きた名将「真田幸村」

NHK「真田丸」より

軍政・外交・謀略すべてに優れた名将で、無敵の騎馬軍団で知られる戦国時代の巨星、武田信玄
神将と呼ばれ、常に敵の数を下回る軍勢で戦いながら、武田信玄や北条氏康といった名将を相手に生涯不敗であった上杉謙信
猛将ひしめく戦国時代にあって、ひときわ鮮烈な光を放ち、常に人気武将ランキング上位に名を連ねる名将が、地方の弱小大名、真田幸村(信繁)である。

関ヶ原の戦いでの武功

関が原の戦いに際し、真田昌幸・幸村父子は信州上田城に篭城しながら戦地に向かう徳川秀忠率いる大軍を釘付けにし、とうとう秀忠率いる部隊は関が原の戦いに間に合わなかった。
家康は嫡男である秀忠の不甲斐なさに激怒するとともに、小大名、真田父子の名が一躍注目を浴びることとなった。

大阪冬の陣「真田丸」

家康の豊臣潰しの策略で始まった「大阪冬の陣」。大阪方についたのは浪人者ばかりで、豊臣恩顧の大名は誰一人として集まらなかった
幸村は、この戦が負け戦であることは分かっていた。死を覚悟の戦であった。
ところが、幸村は「真田丸」という出城を作り、わずかな兵で徳川勢を散々に苦しめた。

しかし、大砲の本丸狙撃に恐れをなした淀殿の指示により和議となった。

ここで家康に謀られ、和議条件であった外堀だけでなく、内堀まで全て埋められてしまう。
さすがの名城大阪城も、堀をすべて埋められ裸城となっては、大阪方の負けは必至となった。

大阪夏の陣

大阪冬の陣の後、その武功を買われ徳川方から十万石、後には信濃一国再三調略を受けた幸村であったが、「豊臣家への恩義に報いる」ときっぱりとそれを断り、一筋に死に急いだ。

「大阪夏の陣」では、凄まじい強さを誇った伊達政宗の騎馬鉄砲隊を撃破するなど、敵の大軍の中に一団となって駆け入り、家康軍を三里も後退させ、ついに家康の本陣に肉薄するものの及ばず、力尽きた。

“真田、日本一の兵、古よりの物語にも、これなき由”

それが、島津家に伝えられた、この合戦における幸村の評価である。

「義」に生きた 幸村

戦国の世が終わりを告げると、侍達は政治に走り、時代の流れを見計らって自分の存続ばかりを考えるようになっていた。
そんな中、幸村は最後まで「義」に生き、死に急いだ。
「真田十勇士」(後の創作ではあるが、猿飛佐助・霧隠才蔵などは実在の人物をモデルにしている)と呼ばれる忍者の精鋭軍団を率いて、巨大な勢力を持つ家康を2度までも苦しめた。

戦上手で名高い家康の「馬験」(うまじるし)が倒れたのは、生涯で2度だけ。
三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れた時と、大阪夏の陣で真田幸村に攻撃された時だけである。

皆に武功を認められ、惜しまれながら48歳の生涯を閉じた幸村。長く不遇の時を過ごした彼にとって、ある意味、侍としての本懐を遂げたのかもしれない。
この時代を最後に戦乱の世は終わりを告げ、同時に真の「侍」が次々と姿を消していった。

幸村と真田十勇士が英雄として現代にも語り継がれ、不動の人気を得ているのは、真っ直ぐに生きた彼の激しくも儚い生き様に、太平の世を生きる私たちの羨望が、乱反射するからなのかもしれない。

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