歴史ミステリー 源 義経Part3「義経ジンギスカン説」

※ 3回シリーズの最後は、義経の謎「義経ジンギスカン説」を紐解きます。
 Part1はこちらPart2はこちらから

義経とジンギスカンの共通点

ジンギスカン騎馬像

義経が生まれたのは1159年、ジンギスカン(チンギス・ハン)は正確な記録が残っていないものの、1158年から1162年までの間のようです。
ジンギスカンの生い立ちには謎が多く、彼は1194年、歴史に突如として名を現したのです。
奇しくも、義経が衣川で没した5年後ということになります。

その他にも、この2人には奇妙なまでの共通点が数多く存在します。

義経は「九郎判官」(くろうはんがん)と呼ばれていましたが、ジンギスカンは「」という数字にこだわり、物を贈られるときも必ず9個ずつそろえていたそうです。

また、満州では、ジンギスカンを「クロウ」と呼んでいました。

さらに、義経の紋章は「笹竜胆」
大英博物館にあるジンギスカンの彫像には、笹竜胆と思われる模様がついており、蒙古の兜にも笹竜胆の紋がついていました。
また、ジンギスカンのも、源氏と同じ「白旗」です。

元寇の謎・マルコポーロの記録の不思議

フビライ・ハン(チンギス・ハンの孫)による「元寇」(鎌倉時代中期のモンゴル帝国(元朝)による日本侵攻)にも謎があります。

誤解だらけの「元寇」…日本と元、戦争直後に貿易が空前の活況を呈した理由の画像1
蒙古襲来絵詞

は、日本を攻めるまで2度も使者を送り、あくまで平和交渉を続けようとしました。
世界史上最大の圧倒的な勢力を誇り、ほとんど不敗の戦歴を誇った大帝国にとって、当時の日本は取るに足らない小国です。
最初に使者を追い返されたときに、すぐに武力解決をはかってもいいはずなのに、その後6年もの間、戦をしかけてこなかったのはなぜなのか?
もしかしたら、フビライにとっては、おじいさんの祖国だったから?(…それは考えすぎですね)。

また、マルコポーロの記録の中に、「蒙古人はフクロウを大変尊重する」とあります。
その理由に、フビライから聞いたジンギスカンの話を引用していますが、その話は、まさに兄 頼朝「石橋山の戦い」で梶原景時に命を救われた話、そっくりそのままなのです。

成吉思汗(ジンギスカン)の意味は…

ジンギスカンは、当時文字がなかったモンゴルに文字をもたらしました。
「成吉思汗」ジンギスカン自身で考えたものと言われています。
では、義経=ジンギスカンと仮定した場合、公家との付き合いで見事な言葉遊びの才を見せていた義経は、この「成吉思汗」に、どのような意味をこめたのでしょうか。

NHK大河ドラマ「義経」より

義経が愛した静御前は、白拍子(しらびょうし)という、頭に烏帽子(えぼし)をかぶり水干(すいかん)という装束を着て、太刀を腰につけた男装姿で舞うことを生業としていました。
頼朝の命で鶴岡八幡宮社前で白拍子を舞うことを強要された静御前は、頼朝の前で以下の歌を詠み頼朝を激怒させます(妻 政子の助命により命は救われる)。

”しずやしず しずのおだまきくりかえし むかしを今に なすよしもがな
吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の あとぞ恋しき"

(静よ静よと繰り返し私の名を呼んでくださった、判官様との懐かしい昔に巻き戻す方法があったら。
吉野山に積もる雪を踏み分けて入っていった(身を隠した)貴方(義経)の跡が恋しい。)

前段は『伊勢物語』の「古のしづのをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな」の古歌を、後段は『古今和歌集』を踏まえたもので、「しづ」を自分の名の「静」にかけて、義経を恋い慕い、なんとかして昔を今にもどしたいという願望をあらわしたものです。

ここで、「成吉思汗」の文字を紐解いてみると、
吉野山
=さんずい(水)+干=水干=白拍子=静御前
「吉野山の誓い成りて静を思う」とも読め、上記の歌に対する見事な「返し」にもなっています。

また、「成吉思汗」の文字を万葉仮名として読み下すと、「なすよしもがな」と読めるのです。

ただの深読み、こじつけ…かもしれませんが、何だか不思議なロマンを感じずにはいられません。

これも深読み(因果関係不明)だとは思いますが、明治38年2月1日付の読売新聞に「アルタイ山頭の神鏡」発見という興味深い記事が掲載されました。

バイカル湖辺(モンゴル近郊のロシア)、アルタイ山頭に近い一小村のラマ教の廟から一枚の鏡が発見された。その鏡の裏には高砂の尾上松、爺と姥、鶴亀の紋、そして次の文字が書いてあった。
 「正三位藤原秀衡朝臣謹製」

ジンギスカンの最期の謎

ジンギスカンは、巨大な大男であったとされています。
身軽で小柄な義経とは対照的で、この説を否定する決定的な齟齬があるように思われます。

しかし、不思議なことにドルジという学者の『ジンギスカン伝』によると、

「奇妙な事に、ジンギスカンが亡くなったとき、黄金の棺に納められた遺体は、異常に小さくなっていた

と書かれています。医学的・生物学的にはあり得ないことです。
もしかしたら、ジンギスカンとして表に出ていたのは弁慶で、義経は影で統一への大事業を指示していたのでしょうか。

弁慶は、衣川の戦いで義経を逃がすため盾になり百何十本かの矢を体に受けても倒れず、立ったまま息を引き取った(弁慶の立往生)とされていますが、実はそれは七つ道具を持たせた藁人形で、弁慶は死んでいないとする説もあります。
事実、いかに大豪傑 弁慶といえども、この「立往生」は医学的にも無理があり、後世の作り話である可能性が高いと思われます。

平泉ものがたり館

また、ジンギスカンが臨終の際に残した言葉にも疑問が残ります。

「われこの大命をうけたれば、死すとも今は恨みなし。ただ、故山(故郷)に帰りたし。」

彼は蒙古で息を引き取っています。
蒙古で生まれ蒙古で育った蒙古族の英雄ならば、この言葉は腑に落ちません

さらに、義経が幼少時代を送った鞍馬寺では古くから義経忌という法要が行われていますが、なぜか義経の命日(衣川で没した日)の4月30日ではなく8月15日。これは、ジンギスカンの命日にあたる日なのです。

※ 紹介してきたのは、この説の一部ですが、説明しきれない矛盾点も多々あり、現在ではこの説の可能性は低いとされています

悲運の英雄 義経は永遠に…

「判官びいき」(弱い者の味方をする)という言葉は、義経への同情から生まれました。
義経に関する様々な説は、稀代のスーパースターの悲劇に、「生きていて欲しかった」と願う人々の心が生んだなのかもしれません。

しかし、この論争が、過去4度も繰り返されてきた背景には、やはりそれなりの理由があります。
もしかしたら・・・。

遠く海外でも、「トロイの木馬」の逸話が出てくる「トロイア戦争」の話は、長い間「神話」とされ、歴史上の事実とは思われていませんでした
しかし、少年時代に読んだこの話を事実と信じて疑わなかったシュリーマンは、42年の歳月を経て、ついにトロイア遺跡を発掘!
この話が史実であることを証明し、世界中を驚愕させました。

トロイア遺跡
トロイの木馬

義経は、人々の願いを乗せ、海の向こうで再び英雄となった…。
この壮大な夢物語は「虚構である」という一応の決着を見ました。
しかし、人々の心の中の「不遇の英雄」への想いが、これからも夢の中で義経を復活させ続けるのかもしれません。

※前の記事:歴史の謎 源 義経 Part2「義経の謎」こちらから
※その前の記事:歴史考察 悲劇の英雄:源 義経 Part1こちらから

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