※ 3回シリーズの2回目は、源 義経の謎に迫ります。
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義経の死にまつわる謎
「吾妻鏡」(鎌倉時代に書かれた歴史書)によると、義経の首が頼朝のもとに届けられたのは、義経が衣川で自害した日の43日後の6月13日となっています。
頼朝が奥州征伐後、大軍を率いて鎌倉に凱旋した時でさえ27日で到着しているのですから、あまりに遅すぎます。
物が一番腐りやすい時期(当時は太陰暦のため現在の暦に直すと6月中旬から8月初めにあたる)に、なぜこんなにも時間をかけたのか…。
ここに、数々の「義経不死伝説」が生まれた発端があります。
そもそも、義経を自害に追い込んだ藤原泰衡は、頼朝からの再三の脅迫にあい、「義経公を大将にいただいて奥州を守れ」という父 秀衡の遺言に背いてまで、藤原氏を守るためにかくまっていた義経を討つ決心をしたのです。
となれば、一日も早く義経の首を頼朝に届けたいはずです。
もしかすると、その首は、容貌が義経にそっくりな影武者 杉目小太郎であり、わざと首を腐らせて見分けがつかないようにしたのではないか、という説がにわかに現実味を帯びてきます。
あの『大日本史』にも、「義経は衣川で死なずに、逃れて蝦夷(北海道)に至った。」と記載されているのです。
『大日本史』といえば、江戸時代に徳川光圀以来250年に渡り大学者だけを集めて編纂した397巻の大著作です。
たとえ一行の文章でも数百人の学者の目にさらされ、縦横無尽の検討を繰り返された結果、初めて生まれてきているといいます。
義経の死には、当時から既に疑惑が持たれていたのです。
義経の首が鎌倉に届くとすぐに、頼朝は奥州征伐に向かっています。
義経を討った藤原泰衡は、まんまとハメられたわけです。
征伐の大義名分を得るため朝廷に追討の宣旨を奏請していたにも関わらず、それを待てないほど慌てて討伐に向かった真意は…。
義経をかくまった(逆らった)ことへの怒りか、義経一人いなければ奥州に恐れるものはないと考えたのか、あるいは、この首は偽者ではないかと疑ったためなのか…。
義経ジンギスカン説
義経が北海道に逃れたとする説を裏付けるかのように、そのコースに沿って義経や弁慶にちなむ遺跡(義経神社や石碑など)が点在します。
しかし、それらは、悲劇の英雄 義経を思う民衆が後世になって作り上げた物との見方もあります。
蝦夷に渡った義経は、アイヌの大王になったとする伝説も残されていますが、さらに、驚くべき説は、義経は海を超えモンゴルに渡り、ジンギスカンになったという説です。
ジンギスカン(チンギス・ハン)と言えば、当時の世界人口の半数以上を統治する世界史上最大の領土を誇る「モンゴル帝国」を築き上げた英雄です。
これが本当なら、世界史上空前絶後の比類なき大スクープになります。
奥州藤原氏の最期と秀衡の遺書
藤原泰衡は、本当に義経を殺そうとしたのでしょうか。
泰衡の心理を考えると、戦の天才である源義経をどのようにして葬るかという策は、考えるだけでも恐ろしい策です。
ひとつ間違えば、たちまち逆襲にあって殺されかねないからです。
事実、頼朝の命令によって、義経を都で襲った土佐坊昌俊は93騎をもって義経の不意を狙いましたが、たちまち捕らわれてその首を取られてしまいました。
そんな危険を冒すくらいなら、父の遺言どおりに義経を大将にすえて戦うほうが得策だったのではないでしょうか。
泰衡は衣川の後、頼朝にあっけなく敗れました。
黒森山に残る古文書によると、秀衡が義経にあてた遺書には「蝦夷への道」が記されていたといいます。
藤原氏の存続を願いながらも、息子の無力さと平泉の末路を誰よりも知っていたのは、父親の秀衡だったのかもしれません。
※次の記事:歴史の謎 源義経 Part3「義経ジンギスカン説」はこちらから
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