歴史ミステリー 本能寺の変の謎~光秀生存説

光秀は道間違いで天下を落とした

明智光秀像(本徳寺蔵)

「本能寺の変」で信長を討った光秀は、毛利に協力を求める密使を送りましたが、この密使が運悪く道を間違え、高松城を攻撃中の秀吉の陣中に迷い込んでしまいました。
光秀にとっては最大の不運であり、秀吉にとっては最大の幸運でした。
秀吉はそれを秘したまま、直ちに和議を申し入れ、2日後には光秀と戦うべく馬首を返し高松を後にしました。
わずかに遅れてこの報を得た毛利方では、「直ちに秀吉を追撃すべし」となるところでしたが、小早川隆景が「和議を守るべき」として全軍を引き止めました。
毛利が動いていれば、秀吉とて敵を腹背に受けて到底勝ち目はなかったでしょう。

結局、「山崎天王山の戦い」秀吉の圧勝に終わり、光秀は敗走の途中、竹薮の中で土民に襲われ命を落としました。
わずか12日の天下でした。
運命とは実に不思議なものです。 

本能寺の変の謎

「敵は本能寺にあり」
光秀は、なぜ信長を討とうとしたのか…、その理由が分かりません。
というのも、光秀はその1年前に定めた軍規の末尾で、

「自分は石ころのように落ちぶれている所を信長様に拾われ、莫大な兵まで預けられた。ご恩に報いるため粉骨砕身しよう。

と決意を表明しています。
それほどまでに恩義を感じていた光秀が、なぜ、わずか1年後にクーデターを起こしたのか…
この、日本史上最大のミステリーには、怨恨・野望からくる単独犯説、義昭・秀吉・家康らが登場する黒幕存在説、公家による共同謀議説など、未だ明確な答えは出ていません。

光秀の死の謎(生存説)

光秀の死にも多数の疑惑があります。
土民に討たれ重傷を負った光秀は自害し、介錯した家臣がその首を隠したとされています。
その後、光秀のものとして首実検に出された首は3つもあり、夏の暑さで判別できないほど腐敗が進んでいたものの、武功をいち早く世に伝える必要があった秀吉「これぞ光秀」と断定したようです。
ここに、光秀生存説が生まれ、それを裏付けるように、「和泉伝承誌」など「山崎の戦い」以降に光秀が生存していたことを記した文書や伝承、俗謡が残っています。
また、比叡山には、光秀の没年(1582年)以降に、光秀の名で寄進された石碑も残っています。
2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」も、光秀生存説をにおわせる最終回が話題となりました。
もし光秀が生き延びていたなら、その後どううなったのか…。

天海像(輪王寺蔵)

中でも、有名なのが「光秀=天海」説です。
家康の側近として仕えた僧、「南光坊天海」
彼の出自が記されている「東叡山開山慈眼大師縁起」には、「陸奥国の蘆名氏の出」と書かれている(実際には蘆名氏と結ぶ人脈は皆無で紋も異なる)一方で、「足利将軍の落胤説」も記載され、「名前も年齢も、弟子たちに一切明かさなかった」と記されているように、天海は謎の多い人物だったことが分かります。

家康の懐刀として「黒衣の宰相」とまでいわれた高僧でありながら、前半生がよく分かっておらず、彼の足跡がはっきりするのは、無量寿寺北飲に来た1588年(光秀の没後6年)からです
機知に富んだ人物で、当意即妙な言動で人々を感銘させ続け、108歳とも言われるほど長生きだったようです。
浅草寺の資料によれば、北条攻めの際、天海は家康の陣幕にいたとされていますが、その後、家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担います。

また、関が原後に江戸の地に幕府を開いたのも、天海の助言によるとされています。
実は、家康は、古くから光秀の明晰な頭脳と人間性に惹かれていましたが、会話の中で100年続く江戸幕府の構想を話していたといいます。
江戸城内部の過郭式構造堀の螺旋状構造は、戦略・防災・運搬などに有効な設計ですが、これも天海の助言によるものとされています。
家康の死後、遺言を託されていた天海は、神号を「東照大権現」とし、遺体を久能山から日光山に改葬、日光東照宮(世界遺産)の建立に尽力しました。

国宝:陽明門

その東照宮にまつわるエピソードを2つ。

「陽明門」桔梗の文様がある(明智家の家紋は桔梗紋
・男体山、中禅寺湖、華厳の滝などが一望できる絶景スポット「明智平」。この地名は天海が名付けた

他にも、様々なエピソードが。

・3代将軍 家光の乳母「春日局」光秀の重臣の子である。
・4代将軍 家継の乳母「三沢局」光秀の重臣の孫である。
・2代将軍「忠」、3代将軍「家」に光秀の文字が…(これは偶然ですね)
・天海の墓所が、光秀の居城のあった近江坂本にある。
・光秀の孫、織田昌澄は、大阪の陣で豊臣方についたが、戦後、助命されたばかりか、その3年後には、秀忠の旗本として2,000石を与えられている。
・山崎の戦で明智側についた京極家は、関が原で西軍に降伏したにも関わらず加増された。
一方、山崎の戦で明智に敵対した筒井家は、その後改易されている。
・光秀の位牌が納められている寺(慈眼)と、天海の戒名(慈眼大師)が同じである。

尾張の小大名から、新しい発想で乱世を切り拓いた時代の寵児、織田信長
浪人の身から将軍 足利義昭、その後信長に仕え快進撃を支えた知将、明智光秀
2人の名将の最期は、あまりにもあっけないものでした。
歴史のミステリーに思いを馳せるとき、その真偽は別にして、戦国の世を駆け抜けたサムライたちの息遣いが聞こえてきそうな気がします。
タイムマシンがあったなら、私は迷わず「過去」にタイムスリップしたいと思います。

※ 関連記事:歴史考察 常識破りで新時代を切り拓いた「織田信長」こちらから。

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