カーテンコール 悲運の名馬 流星の貴公子 テンポイント

日本競馬史上、名馬と呼ばれた馬は数多いが、悲運の名馬と聞いて多くの競馬ファンが真っ先に思い浮かべるのがテンポイントであろう。
一族の悲運を背負い、それを振り払うかのようにひた向きに走り続け、自らもまた悲運に散ったテンポイントの死には、多くの競馬ファンが泣いた。

出典:netkeiba.com

悲運の一族 ~テンポイント誕生~

この馬を語る時、まずは、おばあさんの話にさかのぼらねばならない・・・。
テンポイントのおばあさんは、クモワカといい、中央競馬で活躍していた名馬であったが、ある日、医師から「伝染性貧血症」の診断を受けた事に、悲劇は始まる。
伝染性貧血症は、現在でも確立された治療法がなく殺処分以外に方法がない恐ろしい病気であり、この診断を受けたクモワカは、すぐに競走馬登録を抹消、隔離された。
しかし、隔離厩舎で過ごすクモワカに全く症状が表れないことから、馬主は再検査を要求したが、中央競馬会は「直ちに抹殺せよ」との命令を下した。
クモワカの世話をしていた()務員()(競走馬の食事から手入れまで、あらゆる世話をする人)は、こんなに澄んだ目をした可愛い馬を殺してなるものかと、クモワカを連れて山に逃げ3年間もかくまった
想いを同じくした馬主と調教師は、中央競馬会に抗議し、裁判の末クモワカの再検査が認められ、その結果、診断は誤診であったことが証明された。

しかし、競走馬登録を抹消されていたため、クモワカの子供はレースに出走することができなかった。再び長い裁判の末、ようやく再登録を勝ち取ったときには、11年の歳月が流れていた。
その年、クモワカは1頭の牝馬を産み、ワカクモと名付けられた。
ワカクモは母に劣らぬ競走成績を残し、引退後の昭和48年4月19日、念願の牡馬)を産んだ。
彼は、数奇な運命をたどった一族の汚名を晴らすという宿命を、生まれながらに背負っていた。馬主や厩舎の人達は、

「これだけの苦労をして産まれた馬。せめて新聞の小さな見出しにでも名前が載るような馬になって欲しい。」(新聞の小見出しの活字を10ポイント活字という)

という願いを込めて、この仔馬にテンポイントと名付けた。

流星の貴公子 ~ライバルとの出会い~

出典:netkeiba.com

3歳(現2歳)になりデビューしたテンポイントは、圧倒的な強さで無傷の5連勝という破竹の快進撃を続けた。当時レベルが低いとされ、劣勢だった関西馬の中にあって、その活躍は期待の星であった。
額にはあざやかな流星をたたえ、気品すら感じさせるその姿から、彼はいつしか“流星の貴公子”と呼ばれるようになっていた。

しかし、無敵を誇るテンポイントの前に、1頭の怪物が立ちはだかる。10年に1頭の逸材といわれ、日本競馬史に燦然と輝く功績を残し、“天馬”と呼ばれたトウショウボーイである。
テンポイントは数々のビッグレースでトウショウボーイと激戦を繰り広げたが、テンポイントとは対照的に名門の血を引く天才には、一度も勝つ事ができなかった(競馬は血統のスポーツと言われる程血統は重要な意味を持つ)。
日本一となって一族の汚名を晴らすためには、トウショウボーイはどうしても超えなければならない大きな壁であった。
そしてある日、新聞に衝撃的な記事が載った。

“トウショウボーイ、有馬記念を最後に引退!”

テンポイントにとって、暮れの有馬記念(年末に行なわれる競馬のオールスター戦)がトウショウボーイを敗る最後のチャンスとなってしまった。競馬ファンも、両雄の最後の対決に心を踊らせ、その2頭の馬券だけが圧倒的な支持を受けた。

レースは、戦前の予想どおり2頭のマッチレースとなった。つめかけた10万を超す観衆が、かたずを飲んで見守る中、ゴール前の熾烈なたたきあいを制したのは、テンポイントだった。
一族の悲運を背負い、人々の祈りを乗せて走り続けてきたテンポイントは、ついに“天馬”を敗り日本一となった。

「これだけの馬。天馬を敗ったほどの馬。こんなに美しい馬は、海外の人にも見せてあげたい。」
テンポイントの関係者は、海外遠征を決める。
その時、感涙にむせぶ彼等には、新たな悲運が忍び寄っている事など、知る由もなかった‥‥。

新たなる悲劇

年が明けて、海外遠征の準備を初めようとした頃、厩舎にはファンからの手紙が、山のように届いた。内容はほとんど同じ「海外に行く前に、もう一度だけテンポイントの雄姿を見せて欲しい。」というものだった。
関係者は悩んだ。サラブレッドは繊細な生き物であるため、強い馬(一流馬)は、怪我をしやすい冬には走らせないのが当たり前であった。
しかし、ファンからの手紙は後を絶たず、迷った挙げ句に1度だけ出走させることを決める・・・。

昭和53年1月22日、京都競馬場。
その日は身を切るような寒さで、京都にも雪が降っていた。降りしきる雪が一段と激しさを増す中、テンポイントは66.5㎏という極量のハンデを背負い、日経新春杯(GⅢハンデ戦)はスタートした。
競馬の基本的概念に基づく「ハンデ戦」は、馬の能力差を埋めるため、能力に応じた斤量を背負わされる。1kgで1馬身と言われるほど馬には大きな負担となる。G馬であるテンポイントには、他馬より10kgも重い重量(現代では考えられない斤量)が課せられた。
テンポイントの日本での最後の雄姿を見ようと詰め掛けた大観衆の視線は、テンポイント1頭に注がれた。

レースが中盤にさしかかった時・・・、大観衆は自分の目を疑った。
テンポイントが急に立ち止まってしまったのである。
左後脚を引きずるテンポイントの痛々しい姿‥‥。
「故障発生」それは誰の目にも明らかであった。
翌日の新聞には、心配する関係者やファンの祈りも空しく、最悪の記事が載った。

“テンポイント、後脚骨折で安楽死処分”

馬にとって、後脚の骨折は致命傷である。寝起きができなくなってしまうからだ。寝たきりでは、「床ずれ」という病気にかかり、皮膚が腐って死んでしまうし、立ったままでは、「蹄葉炎」という病気にかかり、脚が腐って死んでしまう。
そのため、骨折が重度で治癒の見込みがない場合は、馬を苦しめないために薬殺するのである。
トウショウボーイを敗った栄光の日から、わずか1ヵ月後に襲った悲劇であった。

祈り ~天国でも走れテンポイント~

ところが、厩舎には「テンポイントを殺すな!テンポイントを助けて!」延命を望むファンからの電話がやむことはなく、それが中央競馬会を動かした。全国から優秀な獣医を33も集めて、競馬史上、世界にも類を見ない大手術を行なうことになったのである。
長時間に及ぶ大手術は成功したが、そこからテンポイントの苦闘は始まった痛みに耐え、寝起きしなければならないからだ。
病気と必死に戦うテンポイントの姿は毎日報道され、幼い子供からも激励の手紙が届いた。

ある日厩務員が、水をやるバケツがゆがんでいるのに気が付いた。
「なんでバケツがゆがむのやろ?」
そう思い、陰からそっと見ていると、テンポイントはバケツを噛んで必死に痛みに耐えていた
「いつかきっと、人間が自分を助けてくれる。」そう言わんばかりに‥‥。
ゆがんだバケツが10個になり、20個になり…、そして43個になった昭和53年3月5日の朝テンポイントは静かに息を引き取った…。

次の日・・・

“天国でも走れ、テンポイント”

という見出しが、10ポイント活字よりもはるかに大きな活字で、新聞の一面を飾った。                       

故郷へ ~テンポイントが遺した物~

テンポイントは、千歳空港に程近い小高い丘の上にある、生まれ故郷の北海道吉田牧場で、静かに眠っている。
“名馬テンポイントここに眠る”と刻まれた墓前には、1年中花が絶えることがない。
今も多くのファンが訪れては、在りし日のテンポイントの雄姿に想いを馳せているという。

テンポイントの死後、61㎏を超える極量は課されなくなった
また、後脚骨折も手術での治療が可能になり、現在ではボルトを入れて活躍している馬もいる

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