海道一の弓取り ~戦上手な家康
家康は、がまんの人として知られ、信長と秀吉の功労をもらっていったような印象すら与えているが、とんでもない。
彼は戦上手で知られ、信長を何度も助けた。
姉川の合戦で浅井・朝倉の連合軍と織田・徳川の連合軍が戦った際、これを勝利に導いたのは徳川軍の働きであった。織田勢は13段に構えた陣が浅井軍の猛攻に11段まで突破され、信長の本陣まで危うくなったのを、徳川勢が朝倉勢を切り崩したおかげで勝つことができた。
信長亡き後の小牧・長久手の戦いでは、天下人秀吉の11万の大軍の攻撃を、わずか1万7千の兵で堅く守りきった。
家康は、天下が転がり込んでくるのをただ待っていたわけではなく、信長の天下統一事業に大きく貢献し、天下人秀吉をも苦しめているのである。
ただ、努力がすぐに報われなくても決してあきらめず、時勢を冷静に判断し好機が訪れるのを待った。家康は努力家で忍耐強い人だったのである。
狸と呼ばれた理由
関が原を征し、天下を早く安定させたい家康にとって、最も邪魔な存在が豊臣勢だった。何とかして攻め滅ぼしたいが反逆の動きがあるわけでもなく、困っていた。
そんな時、豊臣方が作った方広寺大仏の鐘に「国家安康」の文字が刻まれていたことを知った家康は、「これだ!」とばかり、手をたたいた。そして、家康の文字を分断したという因縁をつけ、大阪城を攻めた。しかも、冬の陣に勝利した家康は、和議の条件である外堀を埋めるはずが、内堀まで埋めてしまった。これにより、裸同然となった大阪城は、夏の陣であっけなく徳川勢の手に落ちた。
これが「たぬきおやじ」と呼ばれるようになったゆえんである。
信玄にビビッてチビった!
三方が原の戦いで、家康軍は武田信玄に完膚なきまでに叩きのめされた。名将信玄率いる武田軍は三万、徳川軍は一万、戦上手の家康といえども、戦う前から勝敗は明らかだった。冷静沈着で有名な家康も、この時ばかりは正気を失い、敵中に乗り込んで斬り死にしようとしたところを家臣が必死にいさめ、家康を乗せた馬は辛くも浜松城へ逃げ戻った。
このとき、信玄のあまりの恐ろしさに、あの家康が、馬上でウンチをもらしてしまった(城に着き家臣から指摘を受けた際には「これは焼き味噌(常備食)だ!」とごまかしたそうだ)。
しかし、そのままでは終わらないのが家康である。城に入った家康は、城門を真一文字に開け放ち、門の内外にかがり火をたかせた。自分は湯漬けをかき込むと、その場に横になり、大いびきをかきはじめた。
そこへ、武田方の兵が押し寄せてきたが、大手門が開かれ大かがり火があかあかと場内を照らす様子に、何か策略があるに違いないと恐れをなし引き揚げていった。
こうして家康は、九死に一生を得たのである。
このときの悔しさを忘れまいと、描かせたのが「しかみ像」である。自らの恥を、教訓とするため敢えて記録に残すところが、家康のすごいところだ。
家康は食べ過ぎで死んだ?
家康は、あの時代には珍しく75歳まで長生きしたが、若い頃から健康には留意していたようだ。唯一の趣味であった狩りも、楽しみというよりは健康のためであったらしく、食事も多食美食を自ら節制した。
その家康が、最後はなんと、食い過ぎで命を落としてしまった(史実かは怪しいが…)。
献上された甘鯛の南蛮料理(ニンニク入りのフライ)を「うまい!うまい!」と言って食い過ぎたため、猛烈な下痢を起こし、結局回復することなく命を落としてしまった。何とも悲喜劇的な話である。
情に厚い忍耐の男「家康」
忍者とは、隠密に仕事をし、初めから最期まで姿を隠している者である。戦国時代には敵の情勢を探るスパイが必要となり、その専門家として伊賀・甲賀で忍者が発達したが、歴史の表舞台に出ることは本来ない。
しかし家康は、忍者の頭領、服部半蔵も重く用い、彼が守った「半蔵門」は、今も皇居に残っている。家康は家臣との結びつきが深く、ともに涙したことも度々だったとか。
そんな家康の遺訓として伝えられるものがある。
人の一生は重荷を追うて遠き路を行くが如し。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。
勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、害その身に至る。
己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり。
これは、後人の偽作であるかもしれない。しかし、彼の人柄や生き方を見事に表現している。
太平の世を生きる我々が、最も学ぶべきは、家康の生き方なのかも知れない。
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