陰陽師 ~怪奇の世界
平安時代(平安京)というと、貴族の華やかで優雅なくらしをイメージする人が多いと思います。
確かに寝殿造に代表されるように宮廷社会は繁栄を極め、「かな文字」や「女性文学」、「大和絵」など、日本独自の文化が生み出されたのもこの頃です。
しかし、同時に、あの有名な陰陽師(おんみょうじ)安倍清明(あべのせいめい)が活躍したのもこの平安時代です。
栄華を極めた藤原氏一門内での主導権争いが、怨霊や生霊までをも生み出し、貴族たちを悩ませました。
また、「もののけ」と呼ばれる怪奇現象も相次ぎました。
しかし、それらの多くは、カラスの群れやねずみの足跡など、動物の生態や行動に関するものであり、陰陽師がこれらを問題にし、もののけを作り出したとも言われています。
また、「鬼」が広く認知されたのもこの時代であり、人魂などの話も、政局混乱の上に成り立った憶測や錯覚、幻想であり、治安の悪い世の中の象徴でもありました。
盗賊横行 ~あの藤原道長も被害に!
平安時代は、貴族の華やかなイメージとは対照的に、実は疫病の流行、飢饉の続発、盗賊の横行・・・という忌まわしい時代でもありました。
路上には、病死したり餓死したりした者の死骸が転がっていることが珍しくありませんでした。
こんな状況のもと、貧しい民衆が金持ちの邸宅に群れを成して次々と押し入り、金品を強奪しました。
ついには、あの藤原道長邸まで襲われ、被害額は砂金二千二百両にもなったそうです。
1カ月後、道長邸に押し入った犯人は捕まりましたが、なんと道長に雇われた者の家来でした。
このように貴族の従者や役人までもが盗賊に加わっていたことからも、この時代がいかに荒れていたかが分かります。
既にあった試験地獄?
古代の日本では、官吏(役人)は身分の高い中央貴族の家柄の人々が占めていたため、地方豪族や下級官僚が昇進することは困難でした。
しかし、奈良時代末期から平安時代初期になると作文力を必要とする官吏には、文章道の試験に合格した秀才が貴族よりも高い地位につけられるようになりました。
そうなると、この試験が学生の大きな目標となり、猛勉強する者が増えましたが、学問の神様として崇められる秀才 菅原道真ですら、好きな琴もやめ3年もかかったほどの難関でした。
この試験、230年ほどの間に合格者はわずか65人だったといわれています。
菅原道真は、身分が高くない生まれながらも、その才覚から天皇に気に入られ、右大臣の位までのぼりつめる大出世を果たしますが、ライバル藤原氏の陰謀により大宰府に左遷され、まもなくこの世を去りました。
道真の死後、天災や不吉なできごとが相次ぎ「道真のたたり」と恐れられるようになり、たたりを鎮めるため、京都に北野天満宮が建立されました。
その後、道真の生前の活躍や賢さが評価され「学問の神様」として崇められるようになったようです。
道真をまつる神社は、太宰府天満宮(福岡県)が有名ですが、「天満宮」や「天神」、「天神社」、「菅原神社」は、どれも道真をまつっているものです。
平安京の光と影
「この世をば わが世とぞ思う望月の かけたることもなしと思えば」
(意味:この世は 私のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 足りないものは何もない)
栄華を極めた藤原道長が、藤原氏の全盛を詠んだ歌です。
このころの貴族は、巨大な屋敷に住み、蹴鞠や和歌などの遊びや宴会にふける日々を送っていました。
なんともうらやましい限りです。
しかし、光あるところ、必ず影が付きまといます・・・。
一部の特権階級の影で、多くの民衆は相変わらず苦しい生活を強いられていました。
そして、彼らは、いつしか暴徒と化しました。
華やかに見えた貴族たちも、一方では怨霊や強盗におびえる不安な日々を送っていました。
彼らが発する光があまりにもまぶし過ぎるゆえに、自分が生み出した影に苦しめられていました。
「この世は俺の物だ」
と平気で言ってしまうほど強大な権力を身に付けた道長と藤原一族は、果たして本当に幸せだったのでしょうか…。
今の私たちの生活が、何だかとても愛おしく思えてきます。
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