一晩で城を築く!奇跡の偉業
信長は美濃の斎藤龍興(父 道三を討った)を攻めあぐねていました。
後に宣教師フロイスも「これぞ天下取りの城」と絶賛した難攻不落の稲葉山城(岐阜城)。攻略するには、唯一の弱点である墨俣(すのまた)に攻撃拠点の出城を築く必要がありました。
墨俣は稲葉山の横腹につきつけた刃ではありますが、兵の隠れる一木一草とてない、稲葉山から丸見えの裸地で、その上、地盤は軟弱な湿地でした。
信長は、佐久間信盛に8,000、柴田勝家に6,000の兵を預け築城を指示しますが、いずれも失敗しました。
秀吉は、自らその役を買って出ます。しかも信長から預かった兵はわずか500…。
にもかかわらず、秀吉は、何とたった一昼夜で城を作ってしまったのです!
秀吉は、放浪の時代に世話になった野武士(野盗)の頭、蜂須賀小六の協力を得て、川並衆2,000人を独自に集めました。
上流で木を切り出し、加工を済ませた木材を筏に組んで、木曽川を流下させて墨俣に運び、待ち受けた部隊が次々に柵や櫓を組んでいくという、まさに元祖プレハブ工法!
しかも、別の部隊20人には、稲葉山城下深く潜入させ、信長が明朝15,000の兵を率いて墨俣築城に来るとの流言を流し、明朝まで敵を油断させ、その隙に乗じてこの大偉業を成し遂げました。
これが有名な「墨俣の一夜城」の奇跡!
アイデアマン、知将 秀吉を代表するエピソードです。
得意技は水攻め・兵糧攻め
城の周りに高い堤防を築き、川の水を入れて城を水没させる「水攻め」。
城下の米を買い占め、篭城する敵の食糧補給路を断って戦闘意欲をそぎ、降伏を迫る「兵糧攻め」。
秀吉は、より犠牲の少ない水攻めや兵糧攻めを得意としました。
しかし攻められている側にとって、じわじわと首を絞められるようなこの戦法は、攻め滅ぼす以上に残酷な戦法でした。餓死者が出始めた城内は悲惨を極め、粟、稗から木の実、草の根、馬、犬などありとあらゆる物を食べ尽くした末に、死者の肉さえも奪い合う飢餓地獄と化しました。
しかし、敵が降伏した後、秀吉は大将には責任を取らせ切腹させるものの、その他の将兵には労をねぎらった上、いっさい罪を問わなかったようです。勝ち負けは武士の習いであって、戦いが終われば敵も味方もないというのが秀吉の考えでした。
まさに、ラグビーの「ノーサイドの精神」に通ずるスポーツマンシップですね。
賤ヶ岳の戦いのときも、大勢の負傷者が炎天下に倒れているのを見て、近くの百姓から笠を借り集め敵味方の区別なくこれを配布しました。
並外れた機略もさることながら、秀吉のこのような人柄も、天下人に成り得たゆえんの一つなのかもしれませんね。
発想力と行動力「秀吉」
秀吉は、貧しい家に生まれながら天下人にまで上り詰めた、不世出の英雄です。「獅子は兎を獲るにも全力を尽くす」といわれますが、秀吉の働きぶりもまさにその通りでした。
信長の「草履取り」時代のエピソード(冬、信長の草履を懐に入れ温めていた)からも分かるように、彼は、どんな仕事にも常に全力を尽くし、他人がやりたがらない仕事もどんどん引き受け、それらを見事にやり遂げていきました。
薪奉行になると、出費をそれまでの半分以下に抑え経費節減の実績を挙げ、清洲城の城壁修理が難航しているのを見ては普請奉行の大役を買って出て、割普請の妙策を用いてたちまち修理を完成させ信長を驚かせました。
彼は、チャンス到来を待つのではなく、自らチャンスを切り拓き、見事なアイデアと行動力で、それらをことごとく成功させました。
しかし、その秀吉も、死を前にしては、なす術もなかったようです。
晩年、日に日に衰えていく秀吉は、まだ幼い秀頼の行く末を案じ、主だった大名達に「秀頼を頼む…」と懇願しますが…。
あまりにも偉大な自らの死後、秀頼の末路を誰よりも予感していたのは、秀吉だったのかもしれません。
彼は、次のような辞世の句を遺して、 63年の激動の生涯を閉じました。
つゆと落ち つゆと消えにし 我が身かな
なにわの事も 夢のまた夢
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