歴史裏話 常識破りで新時代を切り拓いた「織田信長」

(出典:ぎふ信長まつり公式サイト)

信長の人物像については、「鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス」のイメージが先行しがちですが、冷静な判断で信玄や謙信との戦いを避けたことや、「長篠の戦」で鉄砲隊を駆使し武田騎馬軍団を撃破したにも関わらず、一気に攻め滅ぼすことをせず、武田氏が内紛で衰弱していくのを7年も待ち続けた辛抱強さを見ると、イメージは一面に過ぎないようです。

いくつかの事例から、真の信長像に迫ります。

比叡山焼き討ちの真相

信長が「魔王」と呼ばれる原因となった「比叡山焼き討ち」(3千人の僧を焼き殺した)に際して、敬けんな仏教徒だった光秀が大反対「比叡山を説得に行かせてほしい」と直訴すると、信長は、あっさりと認めます。ところが、比叡山から帰ってきた光秀は、何と、比叡山攻めの先陣を信長に申し出ます。
世の中の平和を願い、民衆を救うものとして栄えたはずの仏教。平安中期以降、大寺院は朝廷にすら恐れられるほどに権力を増大させ、政治にも口を出し、「僧兵」なる武力も持ち始めたばかりか、厳しい戒律で知られた比叡山には、本来いるはずのない女、子供や、酒、魚までがありました。
鎮護国家の中心、神聖なはずの比叡山は、仏の力を悪用し下界よりも腐りきっていました。
信長が光秀を説得に向かわせたのも、その現状を自分の目で見て考えさせるためでした。
ばちが当たることを恐れ、手を出せずにいる他の武将とは違い、偽善を憎む信長の真っ直ぐな一面と、家臣を信じて待つ大らかな一面が垣間見れます。

石山本願寺との争いにしても、信仰にすがる貧しい門徒(農民)を盾とし、彼らに血みどろの戦いをさせた顕如と、仏の名を借り、やりたい放題の僧たちを、信長は許せなかったのです。
無神論者の信長がキリスト教を保護したのも、宣教師たちは天文・地理・暦学などに長け、人格も高潔で徳行高き人々であったからでした。

ハンコ文化を作った信長

鉄砲隊による近代戦術、楽市・楽座によるフリーマーケット、4層吹き抜けの超近代的な安土城、
従来のしきたりや慣習にとらわれず、常に合理的で新しい物に目を向け、新時代を切り開いた信長。実は、現在のようにハンコがよく用いられるようになったのも、信長がきっかけでした。
それまでの書類や手紙には花押というサインを用いていたが、「天下布武」という印を用いることで、業務の簡略化・効率化を実現した。
その他にも、宣教師が持参した地球儀を見て、当時としては考えられないであろう地球が丸いこと、日本は小さな国で世界には大きな国々がたくさんあることを、すぐに理解したといいます。
次々と新しくいい物を取り入れた信長は、人の任用にも身分や因縁、習慣、先例などにとらわれず、能力のあるものを採用しました。秀吉ばかりでなく、あの明智光秀も放牢人の身から取り立てられました。実力さえあれば、という時代は信長から始まりました。

幻の名城「安土城」~日本初のイルミネーション

信長が琵琶湖東南の平山に建てた安土城は、七重五層の天守閣を持つ軍事的な大城郭であるが、内部は美術工芸の粋をこらした豪壮華麗な住宅建築で、軍事的な櫓に書院造の住宅仏寺式の楼閣を加えた斬新な建築構造であった。これが近代的な城郭の典型とされ、秀吉が大阪城の手本とするなど、信長が文化史上に残した価値と事績ははかり知れないほど大きなものだった。

また、クリスマスなど夜の街に美しく浮かび上がるイルミネーション。このライトアップを日本で初めて行ったのも信長でした。
『信長公記』やルイスフロイスの記録によれば、お盆の時期、城下町の灯りを全て消すよう指示、提灯と松明で安土城と天守に続く道(山全体)をライトアップ
火は入り江にも映え、「こんな美しい迎え火は見たことがない」と、城下の人々を感動させたそうです。

本能寺の変の謎

日本史上最大のミステリーと言われ、真相が多くの謎に包まれている「本能寺の変」。
その首謀者とされる明智光秀は、昨年の大河ドラマの主役にもなりました。
天下統一目前の信長に謀反を起こしたことで、逆賊の汚名を着せられている光秀。しかし、本能寺の1年前に定めた軍規の末尾で光秀は、「石ころのように落ちぶれた自分を拾い上げ、莫大な兵まで預けてくださった信長様。ご恩に報いるため粉骨砕身しよう」と決意表明しています。それほどまで恩義を感じていた光秀が、わずか1年後になぜクーデターを起こしたのか…諸説ありますが、真相は謎のままです。

★関連記事:歴史ミステリー 本能寺の変の謎~光秀生存説こちらから。

時代の寵児「信長」

信長の野望:嵐世紀(長野剛 作)

信長は、ある意味、狂気の天才でした。
しかし、世の中が新しく生まれ変わろうとするとき、時代がその狂気を、彼を欲したのかもしれません。
宣教師達は信長を「大魔王」と表現しましたが、古い考えや悪しき習慣を打ち破り、真に新しきものを作り上げていくためには、大胆な発想と他を省みずに突き進む行動力が必要だったのかも知れません。
しかし、新時代を切り開いたその威厳が、最後には信長自身を滅ぼしました。
信長の天下が続いていたら、国際化はもっと進み、違った日本が…。
いや、時代がもう信長を必要としなくなったのでしょう。

本能寺での最期は、最も彼らしいものでした。
「殿! 明智の軍勢が…謀反です…。」そう告げる家臣に、床に就いていた信長は、

「是非に及ばず」(善悪を論じるまでもない。闘うだけだ。)

そう言い残し、障子を開けます。
49歳、当時としてはもう老年でしたが、あきらめて死に就こうなどとはせず、自ら弓を引き討ち入ってくる敵を射続け、弦が切れると槍をもって戦いました。
そして、重傷を負い戦闘力を失ってはじめて自刃しています。
所詮無駄な抵抗と分かっていても、あらん限りの力を尽くして最後まで奮戦しました。

信長は、最期まで信長でした

歴史は物事を多面的にとらえることの大切さを教えてくれます。
表面的な出来事だけを見ていては、真の歴史を知ることはできません。
「歴史を学ぶ」のではなく「歴史から学ぶ」
彼らの生き方や考え方に学ぶのが、歴史本来の楽しさなのだと考えています。

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