歴史裏話 平家独裁から源氏政権誕生へ

頼朝は人気がなかった

平安時代の末期、「平治の乱」において、源氏はほぼ壊滅しました。
平清盛は、源氏の嫡流の源頼朝(当時14歳)は殺そうとしますが、継母の池禅尼(いけのぜんに)の願いにより命を救われ、伊豆に流刑にされました(もともと清盛は心の広い人物であったようです)。
弟の義経も鞍馬山のお寺に入ることで命を救われました。
武士として初めて太政大臣に任じられ、日本初の武家政権を打ち立てた平清盛

その20年後…、
命を救った頼朝らが源氏を奇跡的に復活させ、圧倒的な力を誇った平氏が滅びることになるとは、さすがの清盛も考えなかったでしょう。
「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。」で始まる「平家物語」の有名な一節、「驕る平家は久しからず」でした。

源頼朝

平氏の独裁政権を破り、武家政治の基礎を築いた源頼朝
彼の成し遂げた仕事は、歴史的に見れば比類のない革命的な大仕事でした。
しかし、民衆からはあまり人気がなかったようです。
頼朝は、「石橋山の戦い」で惨敗し、その後の「富士川の戦い」「奥州征伐」でも、直接合戦にのぞんだ事はなく、戦いにおいて功績らしいものを挙げたことがありません

平氏との一連の戦いも、源義仲源義経の大活躍があってこその勝利でした。
にもかかわらず、頼朝は、平氏打倒の立役者だった2人を殺してしまいます
軍事的な天才でほとんど不敗の源義仲を義経に討たせ、その義経も反逆者に追い込んで奥州の藤原氏もろとも滅ぼしてしまったのですから、民衆から好かれなかったのも当然かもしれません。

平氏も手を出せないすごい一族

「平氏にあらずは、人にあらず」とまで言われた平氏の独裁政権の中で、ただ一ヶ所だけ平氏の力が全く及ばないところがありました。
おびただしく産出する金を経済基盤にすえ、「おごる平家」の武力をもってしても、中央官庁の政治力をもってしても、指一本ふれることのできない厳然たる勢力を培い、都と対峙する文化圏すら確立していたのが、奥州平泉(岩手県)の藤原氏です。

三代目 秀衡の時には、陸奥の守に任ぜられ、東北全土を支配下に置き北方の王者として君臨しました。
まばゆいまでの黄金に彩られた世界遺産「中尊寺金色堂」に代表される華やかな仏教文化を築き上げ、その後、義経をかくまった罪で頼朝に滅ぼされるまで百年もの長きにわたり、東北の地に争いのない平和な時代を作り上げました。

世界遺産:中尊寺金色堂

500年後、平泉の地を訪れた俳人 松尾 芭蕉は、藤原氏三代の栄華義経の最期に想いを馳せ、

「夏草や 兵どもが 夢の跡」
「五月雨の 降り残してや 光堂」

という有名な句を残しました。
藤原氏の繁栄がもっと続いていたなら、東北の地も、また違った発展を遂げていたのかもしれません。

次の記事:歴史考察 悲劇の英雄:源義経 Part1(3回シリーズ)はこちら

平家落人伝説

源氏との戦いに敗れ滅ぼされた平家一門でしたが、生き延びた落人(おちうど)が開発したと伝えられる集落は、全国に70を超えます。
彼らは、交通が極端に不便な山奥などで隔絶した生活を送っていたようです。

福島県南会津に残る平家落人伝説は全国的にも名高く、この地には古くから「桧枝岐歌舞伎」と呼ばれる伝統芸能が残されています。
東北最高峰の燧ケ岳など2,000m級の山々に囲まれた雪深いこの地に、中央の芸能である歌舞伎が伝えられていること、その内容が武士の悲劇を伝えるものが多いことなどから、平家の落人が伝えたのではという伝説が残されています。先日、YouTubeで「桧枝岐歌舞伎」を見てみました。

「おごる平家」の末路とはいえ、長年にわたって辛酸をなめてきた彼らを思うと、歌舞伎の舞があまりにも切ないものに見えてきました。

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