世界中の競走馬(サラブレッド)の父系の血統をたどると、必ず3頭の馬に辿りつきます。
ダーレーアラビアン、ゴドルフィンアラビアン、バイアリーターク
この3頭の馬をサラブレッドの3大始祖といいます。
競馬は「ブラッドスポーツ」と言われるほど血統は重要な意味を持ち、優秀な血統同士の交配・繁殖を重ね、300年以上の時をかけ競馬は発展し、日本でも、数多くの名馬が誕生しました。
3本脚の怪物トキノミノル、抜群の安定性を誇った5冠馬シンザン、7冠馬で“皇帝“の異名をとったシンボリルドルフ、そのルドルフ以来、日本競馬史上2頭目となる無敗の3冠馬となり、日本のみならず世界に衝撃を与えた7冠馬ディープインパクト…。
ここでは、独特の個性で時代を彩ってきた名馬たちの蹄跡を振り返ります。
セクレタリアト ~米史上最強馬
日本がハイセイコーブームに沸いていた1973年、アメリカに恐るべき3冠馬が誕生した。
前年、3歳(現在の馬齢で2歳)で年度代表馬に選ばれるという偉業を達成したセクレタリアトである。
3冠全てをレコード勝ちした怪物の3冠最後の一戦ベルモントSは伝説として語り継がれている。
セクレタリアトは3歳のデビュー当時から圧勝の連続で、史上初めて3歳馬にしてアメリカ年度代表馬に輝いた。
4歳クラシックロードはさらに圧巻であった。
アメリカ3冠レースの1冠目、ケンタッキー・ダービー(ダート2000m)を1分59秒4のトラックレコードで完勝。(これは芝に換算すると1分56秒台と推定される。ちなみに現在の芝2000m日本レコードは1分56秒1)この記録は、50年近く経った今も破られていないスーパーレコードである。
2冠目のプリークネスSもトラックレコードで圧勝すると、最後のベルモントSはまさに怪物であった。
後続に31馬身差をつけての大差勝ちで、従来の記録を2秒6も更新するダート2400mの世界レコード2分24秒0を、終始馬なりでマークした。
この不滅の大記録は、半世紀が経過した現在でも破られていない。それどころか、24秒台はおろか25秒台を記録した馬さえおらず、26秒台ですら稀だ。(この勝ちタイムを芝2400mに換算すると2分21秒台になる。ちなみにあのオグリキャップがジャパンカップでホーリックスとの熾烈な叩き合いで出した世界レコードが2分22秒2である。)
長い歴史を持ち、数々の名馬が誕生したアメリカ競馬界においても、比類なき強さで3冠を制したセクレタリアトは、国民的英雄となった。
その後もダート1800m1分45秒の世界レコード、芝2400mのトラックレコードを樹立するなど3・4歳の2年間で、21戦16勝(一位降着含)の成績を残して引退。
まぎれもなく、アメリカ史上最強馬であった。
トキノミノル ~3本脚の怪物
トキノミノルは売れ残りの安馬だったこともあり、オーナーですらデビューまでその存在を忘れていたほどの馬であった。
しかし、専門家が誰一人目もくれない無印のデビュー戦、トキノミノルは2着以下に8馬身差をつける鮮烈なデビューを飾る。
その後も快進撃を続け、3歳時は6戦全勝。しかもその全てが、2着以下を大きく引き離してのレコード勝ちという恐るべき内容で、クラシック戦線に高らかに名乗りをあげた。
しかし彼は、その抜群の競走成績からは想像もつかない深刻な問題を抱えていた。そして、その事がさらに周囲を驚愕させた‥‥。
彼は生まれながらにして、左前脚の膝に持病を抱えていたため、完調でレースに望んだことは一度として無かったのである。
無傷の8連勝のまま迎えた3冠レースの初戦「皐月賞」。
3本脚の怪物トキノミノルは、ここでもレコード勝ちを飾る。
2冠目の日本ダービーでも、当然のごとく圧倒的な人気を集めたトキノミノル。
しかしダービー直前、持病の左足をかばうあまり、今度は右足にひどい腫れが出てしまう…。
迷いに迷った関係者が出走を決めたのは、ダービーの前日だった。
ダービー当日、第3コーナーにかけて先頭に立ったトキノミノル、無事を案じ続けた騎手の岩下は、鞍上で「南無妙法蓮華経」と唱えながら最後の直線へ…。
そして、強敵イッセイの猛追を振り切り1馬身半差でゴール。2分31秒1、またもやレコードであった。
しかし、栄光の光が眩しければ眩しい程、その輝きは長くは続かない‥‥‥。
レースからわずか17日後、トキノミノルは破傷風に倒れ、静かに息を引き取った。
無敗の2冠馬。10戦10勝、レコード勝ち7回(10走以上した馬で全勝を記録したのはJRA史上唯一)。
輝かしい成績の全てを、3本脚で作った奇跡の馬。
トキノミノルは、ダービーを勝つためだけに生まれてきたかのように、急ぎ足でターフを去っていった。
「幻の馬」と称される激しくもはかない生き様が、彼の栄光にひときわ鮮烈な輝きを与えているのかもしれない。
マルゼンスキー ~最強持込馬
イギリス3冠馬ニジンスキーの子を宿した母シルが、輸入された日本で生んだ牡馬が、伝説の名馬マルゼンスキーだ。
マルゼンスキーは、一度も本気で走ったことがないと言われている。
彼は生まれながらに前脚が外向していたため、強い調教をやれば故障の危険性があった。
そのため、常に60~70%の仕上げで出走していたという。
だが、たった一度だけ本気になったレースがある……。
それが、デビュー4戦目のGⅠ 朝日杯三歳Sである。
当時、持込馬(母馬が外国で受胎し輸入された馬)は外国産馬と同様の出走制限を受けていたため、クラシックロードを歩むことができなかった。
そのため、翌年のクラシックの主役を担う若駒たちが集まる朝日杯三歳Sが、同世代のライバル達に彼の強さを見せつける唯一のチャンスであった。
陣営は、この時だけは、マルゼンスキーを目一杯に仕上げてきた。
満を持して望んだレースは、大方の予想をはるかに超える圧勝だった。
2着馬に2秒2の大差を付け、芝1600m1分34秒4の3歳レコードをマーク。まさに、桁外れのため息の漏れるような勝ちっぷりだった。
それでもレース後、騎手の中野は「目一杯に追ったわけではない」とあっさりと言い放った。
その後中野が、ダービーを前に「他馬の邪魔はしない。ずーっと大外を回るから走らせてくれ!」と嘆願した話は、あまりにも有名である。
その後も圧勝の連続で、競馬ファンは、1年上の3強(トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラス)との対決を楽しみにしていたが、屈腱炎を発症……。
幻の最強馬は、8戦8勝、無敗のままターフを去った。
彼が2着馬につけた生涯平均の着差(8馬身弱)は、未だに破られない記録である。
クロフネ ~砂の帝王
NHKマイルCなど芝で8戦4勝、2着1回、3着2回の好成績を残したクロフネ。
平成13年の秋の天皇賞に出走を予定していたが、アグネスデジタルの突然の参戦表明により、獲得賞金の差により外国産馬枠2頭から漏れてしまうことになる。
「仕上がった馬体でローテーションを変更するよりは…」と陣営は天皇賞前日に行われるダートの重賞、武蔵野Sに出走させることにした。これが、伝説の序章だった。
東京ダート1600mで2着イーグルカフェ(NHKマイルC・ジャパンカップダート制覇)に9馬身差の圧勝、しかも1分33秒3の驚異的なレコードタイムであった。
主戦の武豊もクロフネの背中で味わった、ダートでは体験したことのないスピード感に魅せられていた。ジャパンカップダート(現チャンピオンズカップ)でも、海外の強豪をもろともせず、4コーナーで早くも先頭に立つと、あとは武蔵野Sの再現だった。
前年の覇者ウイングアローが懸命に末脚を伸ばすが、クロフネはその7馬身先で悠然とゴールを駆け抜けた。
タイムはまたもレコードの2分5秒9。
「次はドバイワールドカップだ!」
誰もがクロフネの恐ろしいまでの強さに、抑え切れない興奮を味わった。
しかし1ヵ月後、競走馬にとっての致命傷、屈腱炎を発症してしまう。
久々に出現したスーパースターは、ファンの心に鮮烈な光を放ち、ターフを去って行った。
サイレンススズカ ~快速の逃亡者
5歳になって本格化したサイレンススズカは、その卓越したスピードで宝塚記念まで重賞4連勝という圧倒的な強さを誇った。
平成10年の毎日王冠(GⅡ)。秋の天皇賞へのステップレースであるこのレースが、この年は、本番の天皇賞を上回るレースとなった。
サイレンススズカのほかに、4戦無敗のグラスワンダー(後にグランプリ3連覇・GⅠ4勝)と、5戦無敗のエルコンドルパサー(後に凱旋門賞2着・GⅠ3勝)の史上最強外国産馬2頭が出走してきたのだ。
グラスワンダーが骨折で長く休養していたため、この日が4歳の無敗馬同士の初対決となり、そこに古馬最強のサイレンススズカが加わるという超豪華メンバー。
当時は外国産馬に天皇賞への出走が認められておらず、この対戦は本番の天皇賞では見られないまさに夢の対決であった。
レースはいつものようにサイレンススズカの逃げで始まった。
前半の1000m通過は57秒7、中団追走のグラスワンダーが掛かり気味に進出を開始すると場内が一気に沸く。
しかし、10ヶ月の長期休養明けということもあり、直線に入るとグラスワンダーの動きは思いのほか鈍い。
替わってエルコンドルパサーが外から懸命に末脚を伸ばすが、差は全く詰まらない。
それまで他馬を寄せ付けない圧倒的な強さを誇ってきた4歳馬2頭だったが、59キロの厳しい斤量を背負うサイレンススズカに並びかけることすらできなかった。
まさに、次元の違うサイレンススズカの完成されたスピード。最後は2着エルコンドルパサーに2馬身半差を付ける余裕の勝利だった。
その3週間後の天皇賞、完璧な走りを見せるサイレンススズカに、
「今日は後続をどれくらい突き放すのだろう」
多くのファンはそんな期待を胸にレースを見つめていた。
ところが、誰にも止められなかった快速馬が、大けやきを過ぎたところで止まってしまった。
左手根骨粉砕骨折による予後不良(安楽死処分)…。あっけない幕切れだった。
毎日王冠で彼が破った2頭は、
エルコンドルパサーが後にフランスに渡りGⅠを制覇、凱旋門賞でも2着という快挙を成し遂げ、
グラスワンダーは名馬スペシャルウィーク(ダービー、春・秋の天皇賞、JC制覇)を宝塚記念で完封し、有馬記念も連覇した。
遅れてやってきた怪物「異次元の逃亡者」の軽快な走りを、もう少しだけ見ていたかった。
キーストン ~人馬の絆
昭和40年、第32回「日本ダービー」を勝ったキーストンは、その年、最優秀4歳牡馬と最良スプリンターのタイトルを受賞するなど、24戦18勝、2着3回、連対率(2着以内率).875という、中距離では圧倒的な強さを誇った快速馬であった。
昭和42年12月17日、「阪神大賞典」(GⅡ)。
キーストンは、鞍上にダービーでも手綱を取った主戦 山本正司 騎手を迎え、当然のごとく1番人気で出走した。
大方の予想通りスタートから小気味よくとばす小柄な快速馬は、向こう正面では8馬身差をつける展開。最終コーナーを回っても、手綱を持ったままで先頭をしっかりキープ。
誰もがこのままゴール板を駆け抜けると思っていた。
しかし、悲劇は、突然やってきた…。
直線を向いてスパートをかけたとき、ゴール手前300m地点で故障を発生…。
キーストンは前のめりにバランスを崩し、そのはずみで落馬した山本騎手は頭を強打して脳震盪を起こし、一時的に意識を失った。
キーストンも、惰性で数十メートルを進んだ後に転倒した。
皮膚だけでつながった前脚をブラブラさせる痛々しいキーストンの姿…。
予後不良(回復の見込みがなく安楽死処分になること)は、容易に想像できた。
突然の悲劇に静まり返る観衆…
その時、(激痛で暴れてもおかしくない状態だったが)キーストンは痛みに耐え立ち上がった。
そして、気絶して動かない山本騎手を見つけると、左前脚を引きずりながら3本脚で山本騎手のもとへ歩み寄って行った。
そして、倒れこんで動かない山本騎手を気遣い、鼻をすり寄せた。
自分の命が消えようとしていることも知らずに…。
一時的に意識を取り戻した山本騎手は、キーストンを見て、すぐに全てを察した…。
そして、キーストンの首に手を伸ばし、万感の想いで優しくなでた。
山本騎手は、その時の事を以下のように語っている。
「あー、えらいことになった、と思いましたが、気がつくとすぐそばにキーストンがいたんです。…ということは、そこから離れていったのに、また僕のところに帰ってきたわけですよね。そういうことは、おぼろげに理解できました。
出典:渡辺敬一郎『強すぎた名馬たち』
それからキーストンは膝をついて、僕の胸のところに顔を持ってきて、鼻面を押しつけてきました。ぼくはもう…、夢中でその顔を抱きました。
そのあと誰かが来たので(中略)その人に手綱を渡して『頼むわ』と言ったまでは覚えてるんですが、また意識がなくなりました。」
既にレースは終わっていたが、見守る観衆にとって、レースの事などもうどうでもよかった。
全ての観衆が二人の姿をただじっと見つめ・・・泣いた・・・。
キーストンは山本騎手の手を離れ、馬運車に収容された後、左第一指関節完全脱臼による予後不良と診断され、直後に安楽死の処置を施された(回復の見込みがない場合、馬を苦しめないよう安楽死にする)。
山本騎手が再び意識を回復したのは、キーストンが薬殺された後であった…。
もしかしたら、キーストンが痛み耐えながら、山本騎手のもとに歩み寄り鼻をすり寄せたのは、彼への心配ばかりでなく、最後のお別れを……、そう思わずにはいられない。
カーテンコール 〜競馬はロマン
競馬はギャンブルであり、力と報酬に裏付けられたビジネスである。
これは疑いようのない事実である。
しかし、「競馬はロマン」…、そう信じて疑わない人が多いのはなぜだろうか…。
一頭の馬にはたくさんの人々が関わっている。
牧場の生産者、育生者、馬主、調教師、厩務員、騎手…。
その馬を取り巻く人の数だけドラマがあり、たくさんの感動がある。
一族の悲運を背負い、それを振り払うかのようにひた向きに走り続け、自らもまた悲運に散ったテンポイント。
立ちはだかる天馬トウショウボーイをついに破り悲願を達成したのもつかの間、致命的なケガが彼を襲う。
そして、そこから本当の死闘が始まった・・・。
エリザベス女王杯を勝ったGⅠ馬であるにも関わらず、中央から地方へと流れていったホクトベガ。
日の当たらぬ地方のレースで、競馬界の常識をことごとく覆し「砂の女王」と呼ばれるまでにのぼりつめた。
そして、日本から遠く離れた砂漠の地で、彼女は星になった・・・。
地方競馬出身でありながら、数々の名勝負を演じたスターホース、芦毛の怪物オグリキャップ。
その人気ゆえの使われ過ぎから、「もう終わった」と評され臨んだ引退レース「有馬記念」。
最後に手綱を託したのは、それまでライバルとして戦ってきた名手 武豊。
「オグリはまだ終わっていない!」彼の言葉に応えるように、最後の直線……奇跡の復活。
17万観衆が送ったカーテンコールは、「競馬はロマン」であることを教えてくれた。
感動、興奮、奇跡、悲劇・・・。
彼らが織り成す様々なドラマは、多くの人の心を動かしてきた。
イギリスの元首相でノーベル文学賞のチャーチル、
『恩讐の彼方に』や『文藝春秋』の創刊で知られる菊池 寛、
『宮本武蔵』『三国志』などの長編歴史小説で人気の作家 吉川 英治 など、
競馬を愛した文豪は、枚挙にいとまがない。
血統という宿命に立ち向かいひた向きに走り続けた馬・・・
人間の夢を背負いながら走り続け悲運に散った馬・・・
彼らは、ただひたすらに走った。
そのことに何らかの意味や価値を見出すこともせず、ただひた向きに・・・。
「競馬はロマン」・・・
それは、“何かに感動する心”が見せる幻なのかもしれない。
だとしたら、私はその蜃気楼を、いつまでも見ていたいと思う。
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