歴史裏話 哀しい英雄 野口英世

千円札に描かれている「野口英世」は、コッホに始まる細菌学的医学の頂点に立つ、世界的医学者でした。
しかし、その栄光とは裏腹に、彼は哀しい英雄でした・・・。

貧困、障害、学歴社会…アメリカへ

貧しい家庭に生まれた野口英世は、幼少時の大やけどにより左手が使えないというハンデを持ちながら、それをバネに猛勉強し、当時、超難間であった開業医試験に合格しました。
しかし、小学校しか出ていない彼に、学歴社会であった日本の医学界は冷たく、活躍の場すら与えられませんでした。
そのため、彼は24歳のとき、自由の国アメリカにチャンスを求め単身渡米すると、寝る間も惜しんで研究に没頭しました。
そして、毒蛇、梅毒、小児麻痺、狂犬病などの難しい研究で次々と新発見を繰り返し、世界の医学界を驚愕させ続けました。
医学の本拠地であるヨーロッパを訪問した際にも、皇族の接見を受けるなど各地で大歓迎を受ける人気ぶりで、まさしく英雄でした。

「これでようやく日本でも認められる…」

そう胸を躍らせ、13年ぶりに凱旋帰国を果たした野口英世。
日本滞在中は、全国各地で歓迎パーティーや講演会などをこなしましたが、彼を招待したのは地方の弱小医師会や実業家ばかりで、学会レベルで彼を祝賀したのは、出身である「北里伝染病研究所」だけでした。
日本の医学界は、学歴のない野口を、頑なに受け入れなかったのです。

アメリカに戻った後も、彼は、当時注目を集めている最先端の研究ばかりに取り組みました。
研究成果を挙げて有名になることだけが、祖国日本との唯一のつながりだったのです。

野口英世は、コッホに始まる細菌学的医学の頂点に立つ世界的医学者でした。
しかし、その栄光とは裏腹に、哀しい英雄でした・・・。

「ノーベル賞」日本人第1号は野口英世だった?

野口英世は、1914年と1915年、2年続けて「ノーベル賞」の有力候補に上がっていましたが、第一次世界大戦の混乱の中、授賞が取りやめになるなど、不運にして日本のノーベル賞第1号の快挙は夢となってしまいました。
その後、南米エクアドルで黄熱病の病原体をわずか9日で発見するという快挙を成し遂げると、その年(1920年)にも、3度目の候補に上がっています。

しかし、月日が流れ今度はアフリカで再び黄熱病が流行すると、そこでは「野口ワクチン」が効きませんでした。
野口は危険を承知でアフリカに向かいます。
そして、その研究の途中、自らも黄熱病に倒れます・・・。
黄熱病の病原体はウィルスであり、当時の技術(光学顕微鏡)では、いかに天才 野口といえども、発見は不可能でした(電子顕微鏡の開発は、彼の死の3年後)。
エクアドルで、彼は見えるはずのないものが見えてしまったのです。

「分からない…。私には分からない…。」

これが、彼の最後の言葉でした。
ニューヨークにある彼のお墓には、
「科学への献身により、人類のために生き、人類のために死せり」
と刻まれています。

おかえり、野口博士

ニューヨークの「ロックフェラー研究所」には、胸像が2つあります。
一つは、創設者であるロックフェラー一世で、もう一つは、野口英世です。
ロックフェラー研究所といえば、ノーベル賞科学者を20人以上も輩出している世界屈指の研究所です。
その中にあっても、野口はこれだけの高い評価を得ています。

しかし、当時の日本は、学歴のない彼を拒み続けました
自分を受け入れてくれない日本を憎みながらも、祖国日本を愛し続けた彼は、アメリカ人と結婚してもなお、生涯アメリカの市民権を欲しませんでした
彼の超人的な努力は、左手のハンデを乗り越えようとする不屈の精神からばかりではなく、祖国日本を思う、せつない心から生まれていたのかもしれません。

野口の最期を看取った、アフリカでの共同研究者ヤング博士は、そんな野口の思いを察し、彼の遺体に日の丸の旗をそっとかけました・・・。

2004年11月、野口英世の肖像画が描かれた新千円札が発行されました。
長い時を超え、ようやく祖国日本に帰ってきた野口博士
今日、改めて千円札を手にしました。
そして、優しく微笑む野口博士に、心から「お帰りなさい」と声をかけました。

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